家庭教師ヨウコ先生の日記

家庭教師をするようになって13年目になります。 これまでの経験や、子育てのこと、趣味のこと、色々綴っていきたいと思います。

自己紹介続き

続きです。

2011年2月に教室を始めて、最初の生徒は自分の子供たちでした。そして、他教室から転籍してきた兄弟と合わせて合計4人。ハンディング(学校の校門前などでのチラシ配り)やポスティングを頑張って、やっと1ヶ月で生徒が数名入塾してきた頃でした。2011年3月11日14時46分。巨大な地震が私の塾を襲いました。初めての経験で、柱にしがみつくのがやっとでした。その時教室にいたのは、男の子の生徒4人。揺れがおさまってからラジオをつけて、聞いたことのない震度、大津波警報・・・驚きました。まずはお預かりしている生徒をスタッフにお願いして自宅まで送ってもらい、私は倒れた棚を戻したり、散乱したプリント類を集めるのに必死でした。そこから数日、あまり記憶がありません。

 

放射能の関係で周りで避難する人がいました。でも、私には塾をやるという責任がある、逃げるわけにはいかないと思いました。何回か塾をお休みして、再開しました。生徒数が多いわけではないので、目の前にいる子を伸ばすことだけを考えていたように思います。でも、この先やっていくには生徒を増やすこともしなければならない。そこで、私は毎月ポスティングをすることを自分に課しました。原発事故の影響で確実に子供の数は減りましたし、厳しいと思いました。でも、塾の存在を知ってもらわないと前には進めないと思いました。私はポスティングを12か月続けました。結果、塾は2年やって、契約満了で辞めましたが、辞めるときには生徒数は30名程まで増えました。

 

生徒数は少しずつ増えていたものの、これだけでは子供の保育園代にはなりませんでした。そこで、塾がお休みの日や空いている時間を使って家庭教師をすることにしたのです。大学時代にアルバイトでやっていたということもあります。

最初に家庭教師で行ったのは、高校生でした。久々の漢文で参考書とにらめっこしたことを覚えています。家庭教師の方も生徒数がすこしずつ増えていき、私の家庭教師人生で忘れられない生徒との出会いがありました。通信制高校の生徒の家庭教師をすることになったのです。中学校から不登校で、通信制高校に進学したものの、スクーリング(年に数回学校に行って活動すること)がどうしても苦手ということで、私が家庭教師をしている関連の通信制高校に転校してきたのです。まずは、高校のレポートを完成し、卒業を目指すこと、そして、できたら大学に行きたいね、と私は彼女に話しました。彼女は私がいなくても実は自分でレポートを進めることができました。高校2年生が終わるころには高校のレポートがほぼ終わっていましたので、3年生では小論文や英語といった、大学入試を意識した内容を取り入れました。そして、毎回新聞記事をノートに貼り、それに対する意見を書くように課題を出しました。私はそれを見て、毎回数分ですが問いかけ(簡単なディベートのつもりで)をして面接対策に役立てばと考えていました。指導を始めた頃は、自信がなさそうな彼女が、受験のころには受け答えもしっかりしてきて変わったなあと思いました。合格の知らせを受けたときは、本当に自分のことのようにうれしかったし、私の自信にもなりました。彼女との出会いがあったから、この世界でやっていけるかも、と思いました。

 

その後もたくさんの生徒との出会いがあって、今に至ります。

一人一人性格が違うように、学習方法も違います。まずはご家庭とコミュニケーションをとって、家庭環境、兄弟構成、血液型などから性格を把握します。私のモットーとしては、同じやり方はしません。

家庭教師というと、進学校にいれるために依頼するという敷居が高いイメージかもしれませんが、決してそうではありません。私の経験では、進学校に入れるというよりは、不登校の子のサポートや、その生徒のレベルに合った指導法で少しずつ成績を上げていくことの方が多いです。さらに、ここ数年は低年齢化が進んでいると感じています。今受け持っている生徒は、8割小学生、2割中学生、1割社会人です。さらには、幼稚園から受け持って今4年目という生徒もいます。小学生のお母さんからは、教育のお悩み相談もよく受けます。そういう話をしてくれるご家庭とは長くお付き合いできています。